◆初めての夜

「それではおやすみなさい」
 さっきまで一緒にテレビを見ていたはずの麻友が三つ指をついて頭を下げて、俺に向かって挨拶した。そして隣の和室へと姿を消した。
「……わざわざそんなことしなくてもいいのに」
 キッチンにひとり残された俺はぽつりとつぶやく。

 麻友が家出をして、俺の部屋で7日間ほどをすごしたのはほんの少し前。
 あれから麻友の母親はすぐに心を病んで病院に入院することになった。
 俺はバイトをしつつも麻友と毎日顔を合わせていたのだが、ほんの3日経つあいだに麻友の顔は血色の悪いものになり、食欲もなさそうだった。
 そんな様子には憶えがあった。
 親父がよそで女を作って家を出て、おふくろまで知らない男のところに行ったときの俺と同じ。
 だから気づけば俺は麻友にまた一緒に暮らさないかと言っていた。
 麻友がいてくれるのは助かるし、おまえが片づけてくれたおかげで和室はきれいになっているから、そのまま使わないのはもったいないと半ば強引に説得して。
 大きな荷物はあとで運べばいいからと数日分の着替えだけを持ってこさせた。
 今日は麻友が改めて俺の部屋にやってきて、初めての夜。

「俺も寝るかな」
 わざわざ口に出す必要もなかったが俺はそんなふうにつぶやき、キッチンの明かりを消してソファベッドに横になった。
 薄暗闇の中で目を閉じていれば眠気も訪れると思っていたが、全然そんな気配は訪れなかった。
 麻友が隣の部屋で寝ているから緊張しているのかな……。
 いやそんなわけはないはずだ。だって麻友が俺の部屋で寝るのは初めてのことじゃないし。前はちゃんと眠れていたし。
 でもなんだろう、まるで他人の部屋に来たかのように落ち着かない。
 なにやらもぞもぞしたものを感じながら俺はソファベッドで寝返りを打った。
 どれくらい過ぎたのか、10分か20分か、もしくは1時間か。
 相変わらず眠気の来ない体を持てあましていると、襖が静かに開く気配がした。
 反射的に顔を向けると、そこにはパジャマ姿の麻友が立っていた。
「どうしたんだ?」
「あ、す、すいません、起こしてしまいましたか」
 俺が声をかけると麻友は過剰にぺこぺこと頭を下げた。
「いやずっと起きてたから気にするな。トイレ行きたいのか?」
「えっと、そういうわけではないのですが……」
 麻友はいたずらが見つかった子猫のように気まずそうな顔をして、それから俺に向かって口を開いた。
「眠るって、どうすればいいのでしょうか」
「そりゃ布団入って目を閉じていれば……」
 と俺は答えかけたが、さっきまでそうしていたのに眠れなかったのも俺自身だ。
 俺はゆっくりと身体を起こして自分の頭をかく。
「眠たくなったときに眠ればいいんだよ。それまでなにかして起きてればいいじゃん」
「ですがそのまま眠れなくなったら次の日が辛いのでは」
「べつに一日二日寝なかったくらいでどうにかなるもんじゃないだろ、若いんだし」
「私はそうかもしれませんが克樹さんは……」
「おぉい!? そんなに年齢離れてねーだろ! なんで俺だけおっさん扱いされるんだ!」
「普段の行い、ですかね」
 くすくすと麻友は笑う。
 先程まではどこか緊張していた様子でもあったが、やっといつもの調子になってくれたようだ。
「俺も眠れないんだ。こっちでテレビ見てよう」
 テレビの前に移動して隣をぽんぽんと叩くと、麻友はとことことやってきてそこに座ってくれた。
 部屋の明かりはつけないで再びテレビの電源を入れる。音量も小さめにして、チャンネルは適当なものを選んで。ちょうどというわけでもないけど古い洋画をやっていた。
 俺たちは特に会話するわけでもなくテレビを見続けた。
「くちっ」
 だけど不意に麻友は小さくくしゃみをした。
 いまの季節は秋。たしかに外で裸になって寝ても風邪をひくくらいで済むだろうが、肌寒さを感じることは間違いない。くしゃみがうつってしまったのか俺もなんだか鼻がむずがゆい。
「俺の毛布、使っていいぞ」
 ソファベッドの毛布をつかんで俺は麻友に押しつけた。
「いえ、克樹さんも寒いのではないでしょうか? 私のことは構わずに」
「俺のことは気にするなって、使えよ」
「そういうわけにはいきません。風邪は万病のもと。克樹さんが風邪をひいてしまい、克樹さんの身体で熟成されたウィルスが変貌を遂げ、やがては全人類を脅かす災害へと変わってしまったら私は申し訳が立ちません」
「なんに申し訳が立たないんだよ! おまえ本当に面倒なやつだな! わかったよ、こうすればいいだろ!」
 俺は隣に座る麻友の肩を抱き寄せ、そしてふたり一緒に一枚の毛布にくるまった。
「……た、たしかにふたりで毛布を使うというのは合理的かもしれませんね」
 腕の中で麻友がわずかに身体を動かしながらつぶやいた。
 俺も勢いで麻友を抱き寄せてしまったが、こんなふうに密着すれば麻友の体温を身近に感じてしまう。
 は、と近くで吐き出される麻友の吐息。
 ふんわりと感じるシャンプーと石鹸の香り。
 今日も俺が使っているものと同じものを使っているはずなのに、なぜだか一段と香り立つような気さえしてくる。もちろん不愉快じゃない。ただ鼻をむずむずとくすぐるものがあって……。
「へぶしっ」
 俺はくしゃみをしていた。
「ほら、やっぱり克樹さんも寒いんじゃないんですか」
 麻友は俺の胸元へとより近づいて、毛布を俺の肩にかけ直す。そうすればよりむずがゆくなってしまうが、そもそもこんな体勢にしたのは俺だ。
「おう……」
 と言いながら俺はされるがままになっていた。

 しばらくふたりで暗い部屋の中でテレビを見ていた。
 画面に映し出されるのは田舎町で暮らす人々のドラマで、大事故や殺人事件といった派手なことは起こらずに淡々と物語は進んでいく。
 途中で小腹が空いたのでそばにあった菓子を持ってきて俺と麻友の前に置いた。一度は立って離れてしまったが、だからと言って離れて座るとまた面倒な言い合いになりそうなので、俺は再び麻友の肩に寄り添い、同じ毛布にくるまった。
「……ん、む……」
 麻友が菓子を頬張る音が聞こえる。
 俺も同じように菓子を口に運び、ぽりぽりと噛みしめる。
「……ふふっ」
 不意に麻友は小さく笑った。
 テレビの中では登場人物が畑を耕す様が映し出されていて、特に笑うようなところじゃなかったと思うんだが。
「いまの私、悪い子ですね」
「え、いきなりなんで」
「夜中に明かりをつけない部屋でお菓子食べながらテレビ見るなんて、悪い子です」
 まるで秘密をこっそり打ち明けたかのように麻友は人差し指を自分の唇に押し当てて、くすりと小さく笑う。
「いや、これくらいべつに……誰だってやってるだろ」
「克樹さんは夜中にこっそりテレビを見ながらお菓子食べてたんですか?」
 テレビに顔を照らされながらも麻友が俺を、じ、と見つめてきた。
 その奥深くをのぞきこむ瞳はいまの俺のことを聞いているわけじゃないと言っていた。
 つまりはもっと前、俺が両親の望むいい子であったときの話。
「……まぁ、俺もそんなことはしてなかったけどな」
「じゃあやっぱりいまの克樹さんも悪い子です」
 ふふ、と麻友は無邪気な子供の笑みを浮かべた。
 いまこうしていることが楽しいんだってことが伝わってくる。
「これからはもっと悪いことしていいんだぞ」
「たとえば、どういうことです?」
 俺の腕の中で小柄な麻友が首を傾げ、俺を見上げた。
 同時に麻友は自分の身体の重みを俺の胸へと押しつけてきた。偶然じゃない、これはわざとだ。だってさっきまであまり感じなかったやわらかさを感じてしまったから。
 布の向こうにある少女の肉体。
 俺はすでにその奥深くに触れる気持ちよささえ知っている。
 は、とこぼれる熱い麻友の吐息。鼻をくすぐる甘い香り。

 悪いこと。大人の秘め事。
 敏感な個所を触れ合わせる、秘密の行為。

「ね、寝る前に歯磨きしないとか」
「なんですか、それ」
 麻友は期待が外れたとばかりに唇をとがらせて不満な顔を見せた。
 だけどテレビにへんな顔をしたぬいぐるみが躍るCMが映し出された途端、麻友はぷすっと小さく噴き出した。そのまま麻友はテレビを見続けて、俺も同じようにテレビに視線を向けた。

 古い洋画は人間関係を中心にした物語を描きつつも終盤を迎えようとしていた。
「……ふぁ……」
 麻友は小さくあくびをして俺の肩へと頭を乗せてきた。
「眠いんなら自分の部屋戻れよ……」
 そして俺も麻友を支えたままあくびを噛み殺す。
「もうちょっと……これが終わるまで……」
 こく、こく、と麻友の頭が揺れていまにも落ちそうだ。
 最後まで見たい気持ちもわかるけど、こんな状態なら見ても内容なんて覚えていないんじゃないか?
 なんて思っていると麻友の手が俺の胸元をぎゅ、とつかんだ。
「私、ですね……ここ数日、あんまり眠れなかったんです……」
「ああ……」
 だとは思った。食欲がなさそうなのは明らかだったが、きっとあんまり寝てもいないだろうなと、顔色やぼんやりとした様子から予想できた。だからこそ俺はもう一度俺の部屋に来ないかと説得したわけだが。
「だから、眠りかたなんて、忘れてしまって……」
 ゆっくりと麻友はつぶやく。言葉の合間に小さくあくびをはさみながら。
 本当に眠そうだ。
「でも、こうしていると、あったかくて、ほっとして……うれし、です……」
 たぶん麻友は自分がなにを言っているのかわからない。
 それでも微睡みの中で言葉をぽつぽつと紡いでいく。
「いいよ、眠れよ」
 俺は麻友の肩をもっと自分のほうへと抱き寄せて、その頭を撫でつけた。
「……ふぁい……」
 あくび混じりの返事をした麻友は俺の体へとその頭を擦りつけ。
 やがてはすぅすぅと安らかな寝息を立て始めていた。
 麻友のやわらかさを感じる。熱も、甘い匂いも。
 だけど情欲を煽り立てられるなんてことはなくて、静かな落ち着きを感じる。
 あったかくて、ほっとする。
 それは俺も同じだった。
 俺へと重みを乗せる麻友の髪がさらりと揺れた。
 長い黒髪に指を絡めると絹糸のような感触が指をくすぐった。
 その感触が気持ちよくて、しばらく俺は麻友の頭をゆっくりと撫で続けて。
 俺もいつの間にか瞼を閉じるのが自然なことに思えてきて……。

 麻友でもない、俺のものでもない誰かの声が聞こえる。
『…………予報です。今日の天気は全国的に晴れ。今朝は少し肌寒さを感じますが、昼間はさわやかな秋の風を感じる日になるでしょう』
 あ、テレビつけっぱなしだった。
 ぼんやりとそんなことを考え、背中に硬い感触を感じる。どうやらテレビを見ながら俺もキッチンの床で眠ってしまったらしい。
 だけどほとんど寒くない。
 なぜなら仰向けになった俺の身体の上に、麻友が抱きついていたから。
「……ん……」
 俺の胸にしっかりとしがみつきながら麻友はむにゃむにゃとなにかをつぶやいた。やがてその瞳はゆっくりと開き、麻友の様子を見守っていた俺と視線がぶつかった。
「ふわっ!?」
「ぐっ!?」
 麻友がいきなり俺の腹を押しながら起き上がったものだから俺は苦悶の声を上げた。
「す、すいませんっ! い、痛かったですか……?」
 俺から離れた麻友が心配そうに顔をのぞきこんでくる。
「や……だ、大丈夫だ……」
 いきなりでびっくりしたが俺もゆっくりと上半身を起こした。
「私、ドラマが終わったらちゃんと隣の部屋に戻るつもりだったんですが……」
「いいよ、べつに。よく眠れたんだろ」
「はい……眠れました……」
 麻友は顔を赤く染めながら小さくうなずいた。
 きょろきょろと気まずそうに視線を動かしてはいるが、その顔はとても血色がよくて俺の部屋に来る前の病人のような姿からは回復していた。
「あっ! そうです、すっかり忘れていました。こんなことではいけません、いちばん最初なんです、ちゃんとしなければ……」
 突然麻友はなにかに気づいたように小さく口を手のひらで押さえ、もぞもぞと体を動かしてその場にちょこんと正座をした。
「克樹さん」
 真剣な瞳で俺をまっすぐに見つめてくる麻友。
「な、なんだよ」
 なんだか俺も緊張してきて体を強張らせてしまう。
 麻友は俺に向かって小さくほほ笑む。
「おはようございます」
「……おはよう」
 そのやわらかな笑みを直視するのがなんだかむずがゆくなってしまって、俺はついと視線を逸らした。
 俺の返事を聞いた麻友は満足そうにうなずき、立ち上がった。
「それでは着替えてきますね。それから朝ごはん作ります。たくさん食べてお仕事がんばってくださいね、克樹さん」

 これは初めての朝。
 きっと俺が彼女の幸せを見届けるまで続く日々の始まり。

 朝日が、とてもまぶしい。